昭和43年4月26日 朝のご理解
                       平川直子ノート・松永享四郎

ご理解第六十九節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷い易い。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」


 日は、年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば楽じゃと、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが、みやすう信心するがよいぞ、と、ご理解の一節でございます、日は、年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば、立ち行こうが、みやすう信心をするがよい。
 その日その日がどうにか立ち行っておればそれでよい、みやすう信心をすれば、そこんところを、その日その日が何とはなしに立ち行っておる、と。
 日は年月のはじめじゃによってと云う風に、こう云っておられますでございますが、おかげ急ぎをするな、毎日毎日まあ何とかやって行きよる、何とかおかげを受けて行きよう、日は年月のはじめじゃによって、その日その日が何とはなしに、立ちよって行けば、それでよかろうが、みやすう信心をするがよい。
 ここんところを、私は、その思うてみなければいけんと、ね、おかげ急いではいけないけれども、例えば、十年経っても、二十年経っても、いや、それ以上の信心をさせて頂いておっても、やはり、その日その日が立ちいっておる、これは、信心があってもなくっても何とはなしに立ちいっておる。
 そこのところを、あがき、もがきする、何とかもっとましな生活がしたい、もっとましなおかげを受けたい、と云うのでおかげ急ぎをする、そこに、その一日が苦しい、所謂、その求めて与えられない寂しさがあったり、イライラがあったり、苦しさがあります、
 その日その日が、立ち行っとればいいのだから、けども、ここんところを、私は、こう云う様な信心で、自分の信心の充実感とでも申しましょうかね、そう云う、私はこのご理解を、私は下の方から申しましたんですけどね、その前には、こう云う風にあるんです。
 信心はみやすいものじゃが、氏子からむつかしゅうする、ね、三年五年の信心では、まだ迷いやすい、十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ、と、それからね、日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ちゆこうが、みやすう信心をするがよい、みやすう信心をするがよい。
 その日その日が、立ちゆければ何とかなる、その日その日を、その日その日が立ちゆけばそれでいいのだ、おかげ急ぎをするな、と云う訳でございましょうがね。
 その前のところが大事なんです。
 3年5年の信心では、まだ、迷いやすい、10年と信心が続いたら、われとわが心をまつれと、まあ、10年をひと辛抱と、10年と信心が続いたら、そのわれとわが心がまつれる様になって行っておる様な信心が充実していきよるかどうかと云う事なんです。
 そう云う、私は信心がなされていきよらなければ、やはり、そこにね、やはりおかげ急ぎと云う、ね、事になってくるんじゃないだろうかと、こう思う、そこで、その10年と信心が続いたら、われとわが心がまつれる様な信心、と云うのは、どう云う様なところへ、ひとつの見当、焦点をおいて信心をして行ったらよいかと、おかげの中にもね、やはりいろいろあるんです。
 これは、三代金光様のご在職中、まだ、大蓮が満州の大蓮がまあ、日本の権威の中にあった時代ですね、大蓮教会、そこの総代をしておられる、一家をあげての信心であるにもかかわらず、何をされても商売が繁盛しない。
 松山先生も、その事がどうも、どう云う事であろうかと、あ-云う行き届いた信心をするのに、どうして、おかげを受けられんのだろうか、と、不審に感じられた。
 あるご大祭に、ご本部にお参りされた時に、松山先生、三代金光様にその事をお伺いされた。
「私どもの信者総代でカクカクの者がおりますが、そのよいおかげが受けられませず、どの様な信心をさせて頂きましたら、おかげをこうむられましょうか」と云うてお伺いを申し上げた時に、金光様が仰有られたそうですね、「こうすればおかげになるとは判りながら、こうせんから、おかげになりませんね」と仰有った。
 長い間、総代でもする位ですから、信心の事は判ってる、一家をあげて一生懸命信心も出来ておる、行き届いた信心も出来ておる、けれどもね、こうこう改まりゃおけげ頂く事、判っとるけども、こう改まらないから、おかげになりません、判っとってせんからおかげにならんと仰有る、ね。
 そう云う様な事で、不信なおかげが10年15年経って行くとするなら、どう云う事になります、その日、その日が立ち行きよってもです、何時までも本当のおかげには到達出来ないでしょうがね。 その信心の内容が、去年よりも、今年と云う様にだんだん改まりに改まらせて頂いて、信心がだんだん充実して来て本当に、10年信心が続いたら、われとわが心がまつれる様な信心が続いて行っておってね、そして、なおかつおかげが受けられるのなら、神様のご都合、その事を、私はご理解七十二節、人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし、と仰有る、ね。
 例えば、その松山先生のところの、総代さんの場合なんかはね、あれだけ信心が熱心に出来るのに、どうしておかげが受けられんだろうかね、私はもう人間を軽う見な、人間を軽う見たらおかげはなしと仰有る、所謂、人間を神様の氏子としての、見方がなされなければならないと云う事なんです。
 けれど、ここんところは、私、人間だけじゃない、ね、場合によっては、物を軽う見な、物を軽う見たらおかげはなし、事柄を軽うみ見な、事柄を軽う見たら、おかげはなし、と云う事にもなると思うんです。
 人間が、やはり神様の氏子としての見方をしなければならんなら、物もやはりそうです、神様のおん物として見なければいけない、そうでしょうもん、事柄だってそうですね。
 所謂、私がいつも成り行きを大事にすると云う事はね、私の周辺に、例えば、私の周りに起きて来る、様々な事柄と云うものは、神様のお働きなのだ、だから、神様を大事にすると云う事は、その事柄その事を大事にする事なんだ、所謂事柄を大事にしないと云う事は、神様の働きそのものを、軽う見るから、おかげはなしと云う事も云えるでしょうがね。
 その様なです、人間を軽う見る、人を軽う見る、物、物事を軽う見る、ね、事柄ね、物よりお粗末にする、人間をお粗末にする、事柄をお粗末にする、結局いかにすべての事にです、何事にも信心になるよ、と云うところが、信心にならせて頂く事を、務め務めして行きながら10年続いて行く。
 そこには必ず、われとわが心がまつれる様なおかげにもなって来る、と同時に、そうしてなおかつ、おかげが頂けるのならね、おかげが頂けると云う事は、まあ、その日その日わたっていておるけども、そこにその私の願いとすると云うかね、その願いが成就しない。 例えば、商売が繁盛しない、と云うのなら、これは、もっともっと大きな神様のおかげを下さろうとしておる、例えばひとつの働きとして、願いの心が切であれば切であるほど、神様の働きはやはり切である。
 云うならば、じゅかい作用が始まる、そこを、教祖は、井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、汲み上げても汲み上げても、泥水が、汚いものが出るね、われとわが心がまつれる様な信心を目指して、信心が続けられて行く、にもかかわらず、例えば、おかげが、いわば本当のおかげになって行かないと云うなら、それは、いよいよ、神様の働きを頂いておるのである。
 右と願って左、左と願って右、願っても右、そう云う互い違いになって行く様な時には、一生懸命の信心させて貰い、今、私が申します様に、人も、物も、事柄もすべての事を大切にさせて頂きながら、軽う見るどころではない、尊重させて頂きながら、信心を続けさせて頂きたい。
 しかも、行き届いた信心させて頂いておって、なお且つ、私は右と願っても左、左と願っても右と、云う様に願いが成就していかないなら、もうそれこそいよいよこれは、神様の願いが成就して行きよる、その氏子に対するところの神様の願いが成就して行っておる、と判らせて頂けれる。
 そこにはね、言葉では云えないけれども、ああ-これはおかげ頂きよるなあ-と、右と願っても左でも、有り難いものが生まれて来るのです、必ず、ああ-神様のご都合に間違いないと云うね、これはまあ-、体験ですからね、何とはなしに、自分の心の隅々にです、おかげの、おかげの充実感と云うかね、おかげを頂いておると云う、有り難いものが、心一杯に広がって来るです。
 これは、私自身20年前、自分の信心を思うてみるとそうですね、信心すれば信心するほど、いよいよ困った事になって行く、その困った事になって行くけれども、困った事になって行く事が有り難いのではない、その中に神様の間違いのない働きをですね、こう感じさせて貰う、感じとる事が出来る、それが有り難い。
 と云う様にですね、そう云う例えば在り方で、おかげがいよいよ本当のおかげへ向かっておる時とですね、形の上に於いては、信心は出来ておるけれども、右と願っても左、左と願っても右と、まあ、云うならばこうすればおかげになる事が、判っていながら、そこんところを実意を持たないね、実意丁寧の信心がない、横着である、我儘であるね。
 そこんところを人を軽う見、物を軽う見、事柄を軽う見る様な在り方で、おかげが右左になって行くと云う様なのと2つあるから、この辺のところの見極めが大事なんです、その見極めがつかにゃいけん。
 そう云う例えば2つのまあ、現れがあるですね、おかげ受けられないと云うてもまあ、その日その日が立ちいっておるけれどもです、その立ち行きかたが、おかげの中におかげに向かって近づいて行きよると云う状態とねえ、これでは、いつまで経っても、その日その日が立ち行こうけれども、本当のおかげにはなって行かないと云う状態の信心と2つがある。
 1つは、どう云う信心をさせて貰うたらおかげになるじゃろうかと、云う風にいつも、そこんところ掘り下げて貰うて、これじゃおかげにならん筈じゃと気がついたら、ホッとそこんところ、もう直ぐにこう改めて行くと云う行き方、これでいて、右左におかげがなるならばです、それはね、必ず有り難い、おかげの信心をさせて頂いておる、有り難いと云うものがね、その心の中に頂ける。
 けども、こうすりゃおかげになる事、判っとるけれども、こうしない、そしておかげを受け様とするね、不実意のままに、おかげを受けて行こうと願う、それは、いつまで経ってもやはりおかげは受けられない。
 私は、だから、おかげ急ぎはいけないけれども、まあですね、信心を判らせて頂こうと云う心は、やはり、もうその切なるものがなからにゃいけないね。
 この寒修行中に津田先生が見えて、この方今の合楽の信者さん方の心の中に、信心を、もう信心を1年で決めよ、と、1年間の間、一生懸命の信心をさせて貰うて、そして、1年間でひとつその本当のおかげを受けよ、と云う今はですね、如何に朝参り、お参りしたって、1年間一生懸命続けたからと云うて、おかげを頂くと云うのではない。
 津田先生が仰有るのは、その1年間で、その信心を決めよと、云う事ね、いよいよ本筋の信心になれよと、云う事なんです、本当の信心の姿勢のと云うか、向きを変えよと云う事ねえ、まあ云うならば本当に信心が当たり前の事としての信心、当たり前としての還元、ご用なんです、が出来る位の信心を、1年間で決めよと云う事なんです。
 お参りさせて頂いておるとも、一生懸命ご用させて頂いておるのも、ね、当たり前の事としての信心が、ご用が出来る様に本気で取り組め、そう云う信心が年間でね、そう云う信心を年間で決めよとこう云う。
 1年間一生懸命参ったからと云うて、一生懸命参っても、1年間で、おかげ頂けると云うのでは決してないのですから、ここをどうぞ、間違えない様にしなければなりません、1年間一生懸命家族を挙げて、例えて云うならば、お参りさせて頂いたから、おかげを受けたと云う様なものじゃないです。
 津田先生が仰有る、いよいよ信心の本筋にやらせて貰ってね、今日は、信心の本筋と云う事については申しませんけれども、今日のご理解のところをですね、日は、年月の始めじゃによって、ね、その日その日が立ち行けば、その日その日が立ち行けばね、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが、みやすう信心をするがよい。
 ここでは、例えば、おかげ急ぎをするな、神様にもちゃんとご都合があるのだと、だから、ご都合急ぎはいけません、けれどもですね、そのおかげがいつまで経っても現れてこんなら、10年続いても、おかげが、本当のおかげが、現れてこないならばです、そう、その日その日が立ち行くだけで、めんめんと信心が続いておると云うだけでは、、なるほど、その日その日のおかげは受けて行こうけれども、これじゃいかんね。
 こう改まりゃ、こうすりゃおかげが頂けると云う事が判って来るね、そこんところをいい加減にする、そこんところを改めろうとも、精進しようとも、努力しようともしないね、それなら、例えば、おかげはない。
 松山先生と金光様の、その言葉になる「こうすりゃおかげになると云う事が判っておるのに、こうせんからおかげになりません」
こりゃ、おかげ急ぎじゃない、信心急ぎ、信心の方を急がにゃいかん、おかげは、神様におまかせする、おかげを、一生懸命願う、まあ、待ちなさい、待ちなさい、ちゃんと時期が来る、と云うのはね、今のな信心を続けておれば、いつかおかげが頂けれると、云うのじゃないです。
 私は、そう云う風に皆さんに申しました事がありますでしょうね、まあ、待ちなさい時期が来ると云うのは、その、その間に本当の事が判らせて貰い、本当の事へとならせて頂きたい、と云う事なんですよね。
 おかげの中に、只今申します様に、右と願っても左、左と願っても右、と云う様にです、願いが成就しない、一生懸命に改まらして貰う事にも、信心の修行にも、一生懸命ならせて頂きながら、かつ、そうである、なお、そうである。
 そんならば、自分の願いが叶うて行きよらんけれども、神様の願いが成就して行きよる時だから、神様の願いが成就して行きよると云う印をです、必ず言葉には云い現せないけれども、心の中にある信心の充実感と云うか、有り難いものが、必ず頂けるんだ。
 それも頂けない、それでも信心は続けよる、ほいで、おかげは、右左になって行く、おかげが頂けないと云う事でもですね、本当のおかげが現れないと云う事でも、そう云う2つのおかげが、頂けないと云う、現れがある、そこで、私共が、ここによくよく思うてみなければならない、事はですね。
 七十二節の、「人間を軽う見るな、軽う見るとおかげはなし」ともうおかげはなしと、断言しておられます、ね、ですから信心をさせて頂く者がです、本当に人間をですね、人間を軽う見る、見下げる様なですね、事では、もうおかげはないです、信心させて頂く様になり、なるほどね、自分が判れば判るほど、人間をいよいよ尊重していかにゃいけません。
 そこで、今日ここでは、人間を軽う見な、と云う事は、人間をなぜ軽う見ちゃいけんか、人間は万物の霊長、神様の氏子、頭が良いから、悪いから、器量が良いの悪いのでです、軽蔑したり、見下げたりする様な心では、おかげは受けられん、と仰有っとられる。
 それは、神様の氏子としての見方をしなきゃならない様にですね、そんなら物事でもですね、神様のその物事その事がです、神様の働きなんだから、神様の働きを、粗末にしたり、軽う見たりする様な事では、おかげはなしと云う事が云えます。
 事柄ね、物でもそうです、まあ云うなら紙一枚でもね、パン一切れでも、それを神様のおん物として、それを大事にする、尊重する様な心がけがなからんければ、物を軽う見たり、事柄を軽う見たら、もう人間を軽う見る事と同じ事。
 だから、私共がです、そう云う様な事が、だんだん判らして貰い、そう云う事で、本当に一日行じらせて頂いて、そして、本当の信心を1年間で決めよ、と云う迫力をもって、信心修行に取り組ませて頂いて行くならばです、成るほど、10年かかる事は要るまい、1年でわが心がまつれる様にもなるだろうね。
 10年かかるおかげなら、やはり、1年でおかげを受けられる様になるだろう、その信心の結果どう云う事かと云うとですね、信心がね、信心をさせて頂くと云う事は、もう当たり前の事としての信心、当たり前の事としてのご用が、すっきり出来て行く様な信心をお互い、お互いが目指さなければいけない。
 皆さんの信心が、今日、私が申しましたどちらに匹敵するか、あてはまっておるか、ね、まあ、本当に自分の頂いておる、今の現在の信心は必ず信心になるね、私が、20年前に、皆さんに皆に私が、おかげを頂かないんなら、金光教の信心は間違い、ね。
 こりゃ、もう今から考えてみると、む-、まあ、だいそれた事でございますけど、その時やそんな時なのです、もう精一杯に、信心にも修行にも、改まらせて頂く事にも、磨かせて頂く事にも、ご用させて頂く事にも、もう私なりにいっぱいのものをね。
 本気で改まろう、本気で磨こう、本気でご用させて貰おう、本気で修行させて貰おう、これで、おかげが受けられんのならば、教祖の神様は、嘘云うちゃる、金光様の信心な間違いと云えれるぐらいに、その事に取り組んでおったと云う事なんです。
 だから、私に心の中にゃ、いつも右を願い、願った事が左になって行っても、私の心の中にゃ、喜びが一杯でである、それは、今から思うと、神様が与えて下さりよった喜びである、そして、今日のおかげになっておる。
 こげんすりゃ、おかげ頂く事、判っとるけれども、ここばこげん改まりゃ、おかげ頂く事は判っとるけれども、そこんとこごまかしながら、信心を続けて来たじゃなかと、その信者さんの場合でもそうなんです。
 それが、もっともっと先生の場合垢抜けしておった、それはもう、当然の事としての信心、当然の事としてのご用、と云う事がですね、いわば、1年間で決められた、そこに、私共にも、声を大にして云われる。
 信心は1年間で決めろと云うのは、1年間本気で朝参りでもしてみなさい、おかげを頂くと云うにじゃないのです、勿論、それもあるけども、1年間で本当に信心の姿勢と云うものを、考えさせて貰うてね、だから、今から、今私が思いますと、20年前の事がです、本当にまあ、おこがましい事であったと思うのでございますけれども、それなりでいいと云う事が判るでしょうが。
 皆さんは、皆さんなりに、一生懸命に修行もし、皆さんなりに一生懸命改まると云う事に、本気になっておる、で、今日のご理解頂きますと、本気でです、人間を軽う見たりする様な事はするまい、物を粗末にする様な事はするまい、ね、事柄をいよいよ大事にさせて頂こうと云う様な事に、本気で取り組んで、そして、1年間、本気での信心が出来ていけばです、完璧と云う事はありますまい、でも、そりゃその人なりでいいんですよ、ね。
 本当のご用向きを、かえってその事が取り組まれておる、おりさえすれば、神様はおかげを下さるですよ、ね、ところがそういう方へ向きを変えず、ただおかげ急ぎばかりする。
 兎に角、1年間で頂く為に、一生懸命、ただ参っておる、拝んでおると云うだけではね、いけないと云う事でございます、おかげには、そう云うおかげが受けられないて云う、本当の意味でのおかげが受けられない、と云う事のなかにそう云う2つのおかげが受けられないと云う事がある。
 一つはね、こちらがね、信心の方向をいつまでも変えないから、こうすれば、おかげを頂く事が判かっとるけども、その方に取り組もうとしないから、おかげをいつまで経っても頂けんというあり方と。
 神様のご都合で、右と願っても左、左と願っても右という様にですね、ようにおかげが現れんのは、もう愈々、神様がおかげを下さろうとする、いよいよ井戸が清水になるまでのです、働きが頂けておるのであると、から、幾ら汲み上げても、まだにごり水が出るという様な、おかげの現れない、おかげが出ない、と云う2つのあり方がある。
 だから、おかげが受けられん、おかげが受けられんと云うてもです、その内容が大きな違いがある、そう云う信心を20年続けたっちゃ駄目ぞと云う信心と、ね、おかげが受けられんのは、いよいよ自分の借金の方が、少なくなっていきよる、いよいよね。
 井戸払いがあっておる、いよいよ本当のおかげの頂ける為に、理解作用があっておる、と云うのはですね、自分でも判る、心の中に響いてくる、ね、自分のこのいきかたでいきゃ、おかげを受けられん事はないと云う確信がモリモリと湧いて来る、喜びが湧いて来るね、そう云う信心を続けさせて頂いて、云うなら1年間で信心を定めよう、決めようと、云う様なですね、迫力を持ったおかげを、頂いて行かなければならんのです。
 ここに、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが、みやすう信心をするが良い、と、こうその日その日が立ち行けば、もう今日一日が何とかなって行きゃ、それでいいと云うのもです、それは、所謂、理解作用を頂きながら、その日作用、その日その日が立ち行っておると云うのです。
 ですから、ここには、おかげ急ぎをせんなら、心が穏やかで、みやす-なる、だから、みやすう信心を続けて行けば、いいと云うのだけども、改まりもせんなら、磨きもせんなら、修行もせんのなら、ね、何とかいつかなろうと云う様な事で、もし、みやす-と云うなら、これは、私は本当の事ではないと云う事を、申しますね。
    どうぞ。